忍者✫二階堂刹那

天文11年に勃発した天文の乱で、須賀川城城主であり伊達政宗の伯母にあたる阿南の方は、伊達政宗と争っていた。政宗は幾度となく降伏を薦めたが、阿南の方はこれを頑強に拒否。そして天正17年(1589年)1026日政宗により、須賀川城は落城しここに二階堂氏は滅亡した。

 

一説には、敗北を覚悟した阿南の方は、落城の直前に幼い三男をひそかに尾張に逃がしたと言われている。阿南の方は二人の男子をもうけたことが知られているが、隠された三男が存在したとの噂もある。

 

同じ頃、幼名多聞丸(後の二階堂刹那)が、阿南の方の遠縁にあたる尾張熱田で神職の家系に引き取られ育てられていた。この多聞丸が阿南の方の子であったと秘かに伝えられている。子供のいない養家で、両親のいない多聞丸は大切に育てられたが、平和な時間は長くは続かなかった。

 

養家が何者かに襲われ、養親やその郎党がことごとく惨殺された。伊達家からの刺客によるものとの噂があるが定かではない。突然の悲劇であったが、養親の機転により難を逃れた多聞丸は伊賀の地に逃れ上忍藤林家に匿われる。

 

そしてその地で忍術の指導を受けることとなった。同時に修験道、陰陽道を体得し、自然と同化する術を学んだ。忍術を極め、藤林家に伝わる一子相伝の秘伝書萬川集海を授けられたとき、自ら二階堂刹那を名乗る。

 

信長亡き後、徳川方と豊臣方の争いが続く中、刹那は密かに大坂の陣に参加し、そして主君の影となり、最後までその身を挺して主君を守ったと伝えられている。

 

大阪城落城後にその姿を見たものは誰もいない。